2008年「篤姫」で大人気だった
NHK大河ドラマですが、2009年の今年は上杉家の武将
直江兼続が主人公の「天地人」がいよいよ今日から放送です。

智勇兼備として名高い直江兼続は永禄3年(1560年)に長尾政景の家臣・樋口兼豊の長子として生まれ、永禄7年(1564年)に長尾政景が死亡すると
上杉謙信の養子となった
上杉景勝(当時は長尾顕景)に従って春日山城に入り、その後非凡な才能を謙信の実姉・仙桃院に見出され景勝の小姓・近習として仕えることになります。そこで景勝(喜平次)と兼続(与六)は「義」に生きる謙信の影響を強く受け青少年期を過ごします。
天正6年(1578年)謙信が死去すると、景勝と北条家からの養子・上杉景虎の相続争い(御館の乱)が勃発し、家中は二つに割れたが兼続は幼い頃から共に育った景勝方に付き勝利する。
天正9年(1581年)跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となり、その後豊臣政権下で上杉家の執政として活躍。秀吉から「天下の政治を任せられるだけの器」と高い評価を受け、度々直臣にならないかと誘いがありますが、景勝との信頼関係は揺らがず、どんなに言われても応じなかったという。
慶長3年(1598年)秀吉が死去すると
徳川家康が次の天下を狙って台頭するようになる。
遺児・秀頼を守り立てていこうとする
石田三成と懇意であった兼続は家康との対決を決意する。そして家康からの詰問状に対しての返書、世に名高い
直江状を書き、これを読んだ家康は激怒し
関が原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こす。
家康(東軍)の勝利に終わった関が原だったが、慶長6年(1601年)景勝と兼続は上洛して家康に謝罪する。その結果上杉家は120万石から米沢30万石へと大幅厳封の処分となってしまう。大幅な厳封を招いた事で家中には兼続の責任を問う声もあったはずだが、兼続はこの難局を乗り切る指揮を執る事で責任を果たす。
本来なら家臣のリストラをすべきところ、それを行わず兼続自身の禄高を6万石から3分の1の2万石どころか5千石にまで下げ、また家臣の禄高をそれまでの3分の1にする事で財政難を乗り切るといった方法をとった。しかし上杉家を見限って離れていく家臣は殆どいなかったという。それと同時に兼続は米沢城下に堤防を築いて町を整備し、新田を開発、殖産事業や鉱山の開発を推進するなど経済面にもその非凡な才能を発揮している。この積極的な経済政策により30万石の米沢藩は10年程で実質50万石程までになったそうである。
その一方で上杉家と徳川家との融和を図り、徳川家の重臣
本多正信の次男を直江家の養子に迎え徳川家との距離を縮め、正信の取り成しで30万石のうち10万石もの役儀免除を勝ち取るなど上杉家に大きく貢献している。
元和5年12月19日(1620年1月23日)病死。享年60

「愛」の前立ての兜をかぶった兼続。「愛」の文字は戦の象徴としての「愛染明王」、「愛宕大権現」への信仰からきたという説と兼続の「愛民」、「仁愛」の精神からきているという説があります。
兼続の精神の師である謙信は私利私欲ではなく「信義」、「仁義」を大切にし公の為を考え生きる武将でした。その一番弟子とも言える兼続はこの考えを自分なりに一歩前に進めて解釈し、「愛民」、「仁愛」の精神を自らの信条に生きたと考えられます。
私利私欲が蔓延し、自分の事しか考えない現代の風潮に謙信や兼続の「義」や「愛」の精神は非常に新鮮に写ります。
経済悪化の影響と言って内部留保金がたくさんあるにも拘らず自らの血は流さずに簡単に社員の首を切る大企業の経営者や国民の目線に立てない政治家達に「義」や「愛」の精神は全く感じられません。「己の利益や保身のみ」の様です。
この、400年前の謙信や景勝、兼続の生き方を通して見ている人が「天地人」の根底にあるテーマを汲み取り、現代に足りない「義」や「愛」について考え何かを感じて欲しいと思います。
これから1年間この「天地人」を楽しみに見ていこうと思います。
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